北辰一刀流 虎韜館は千葉周作四天王筆頭、塚田孔平先生の道場である、
幕末、嘉永三年江戸浅草虎ノ門近く下愛宕に建立された、
北信濃にも広がり松代藩、上田藩、岩村田藩、諏訪高島藩に300名を超える門弟がいた、
fuku shougun ke kenjyutu shinanyaku
matushiro sanada ke
幕府老中 小笠原家、 若年寄 京極家、 松代藩 岩村田藩、などの江戸詰の侍と自分の志に生きた上級武士が通った道場でした、
道場に掲げられた道場額は16代様とも言われた徳川一門
津山藩主 松平確堂様より頂きました、
幕末町道場で有りながら最高の格式を頂いた道場でした。
その他に道場開所当時、佐久間象山先生が遊びにこ来られた時に道場額がなかったので、そこにあった三本の筆を束ねて書いてくれた道場額があります。
塚田孔平源真智 松代藩士
17才で江戸に劍術修行 千葉周作玄武館に入門 周作先生のお供で水戸藩へ剣術指導の傍ら水戸弘道館で勉学、水戸藩 藤田東湖 相沢正志斎 戸田銀治郎 らと親交、
その後 全国を歴訪 見識を広めた、幕府より江戸城に出身し勝海舟らと幕府の立て直しに協力するようにとの矢の催促を頑として応ぜず薩摩長州の志士らと交わっていた。
千葉周作先生亡き後、玄武館顧問に就任して千葉の息子達と門弟の指導をした。
水戸の天狗党を千葉道場四天王が支援、江戸で資金集めをした集義隊を千葉道三郎の家にかくまったそうです、後に幕府より咎められ玄武館は一時閉館させられたそうです。
上野の戦いで幕軍と戦い銃弾を身に受け、それが持病となり再起できなかった
明治二年江戸で没した、
佐久間象山と塚田孔平
象山先生の象山塾は孔平先生が剣術修行していた神田お玉が池千葉周作の玄武館の近くにあったため、負けず嫌いな象山先生玄武館と門弟の数を競ったそうです。
象山先生の江戸行きの資金を坂城町の鈴木家と親戚の力石塚田家で援助したそうです。
埼玉県熊谷市冑山 根岸友山先生の道場
北辰一刀流振武所は長野の門弟が江戸へいくときの要所として大変お世話になった道場でした、佐久間象山先生もよられたそうです、
象山先生と会見した高杉晋作、前田玄瑞も江戸に向かう時立ち寄り、お世話になった。
後に根岸友山先生は清河八郎の誘いで天然理心流近藤勇らと京都へ向かい新選組に参加しましたが不仲となり江戸に戻り幕府新徴組に参加しました、江戸の根岸家は徳川家譜代の旗本です。
有山先生は新撰組崩壊後、近藤が捕まり、処断された報告を受けるとお祭り騒ぎをして喜んだそうです、一体何があったのでしょうか謎です。
隣町の深谷には同門で千葉道三郎より北辰一刀流を学んだ渋沢栄一先生もいました。
叉 深谷の岡部藩には千葉周作先生の兄上(塚越家、現在三重県に在住)が岡部藩剣術指南役をされていた。岡部藩には千葉栄次郎、道三郎両先生から剣術を習った渋沢栄一先輩もいた。
虎韜館師範代
高松平重朗
京都足利将軍木造斬首事件の首謀者の一人で捕り方と戦い壮絶な斬り死にを遂げた。
二代目 塚田亀太郎
長野県警察巡査教習所剣道師範を経て当時第十三代長野県知事大山網綱の推挙により横浜に新設された≪大日本帝国海軍兵学校≫の剣道師範に就任。
五代目 塚田慶一 東京成徳短期大学工学部元教授
流祖 千葉周作平成政 (屠龍)
東北の片田舎から江戸へ、門弟6000人 福将軍家徳川藩剣術指南役、身分は副将軍の側近、馬周り役 剣聖と迄言われた。
海保帆平
玄武館の筆頭者、千葉道三郎と並び北辰一刀流最強の剣術家の一人、千葉の双璧と呼ばれた
安中藩士~水戸藩剣術師範 入門時初目録の技量でわずか五年で大目録免許を得た天才剣士【稽古は人の数倍こなし、人柄良く、後に江戸に海保塾を開く】
わずか五年で皆伝を得たのは数千人の門弟の中で臼井新三郎先生と海保帆平先生だけである、山岡鉄舟の師の井上八郎も皆伝までに13年を要しています。(現代でも超えたものはいません)
水戸藩に仕え相沢正志斎の長女と結婚、海保流手裏剣の名手、徳川公の前で飛び立つ鳩の両方の羽を撃ち、飛び止めたのが有名。後に根岸流手裏剣術につながる。
千葉周作 四天王筆頭 塚田孔平源眞智 門下
虎韜館初代 【北辰一刀流塚田派兵法宗家】
塚田孔平源真智ー塚田亀太郎ー塚田勇雄ー塚田勇也ー
塚田慶ー―髙野真虎ー早野真景
塚田派6代目 真虎館長は幼少の頃より二代目塚田亀太郎先生が教えた長野県警察剣道や長野県の先生方に千葉の幻と言われた伝説技を習う。のち東京に出稽古、長野県伝承の北辰一刀流斬り落とし技を見て頂く、先代より、【君は一体その技をどこで習った?うちではそれが完成すると大目録なんだよと言われ 千葉先生のころ 江戸時代は皆そうだったんだよ、田舎から出て来て修行して帰ったんだよ、と嬉しそうに笑われ、君にはうちの級段は合わない、千葉先生のころの昔の三段をやると、亡くなられる3か月前に奥伝の許可と秘伝の技を教わり皆伝を許される、その後稽古で目が合うと必ず両手を打ち合わせて斬り落としの合図を私に下さった ̄~~~~(ここは秘密)~~~~『これがあれば自分でできるだろ』とおっしゃってくださりそのお言葉を機に信濃へ戻る(先代とのうれしい思い出)後に信濃に虎韜館を再興。
千葉周作四天王
塚田孔平
稲垣定之介ー稲垣七朗ー諏訪高島藩士岩波正四郎に免許を出す
庄司弁吉
森要蔵ー気の導引の法を伝える
小栗上野介 最新の調査研究で千葉道三郎先生の門下である資料が出てきたそうです。
小林誠二朗定之
東京深川至誠館館長 宇都宮藩士 千葉周作最後の内弟子 旧大日本武徳会教士8段
内弟子に若き日の中山博道、代稽古に高野左三郎、客分に根岸信五郎がいた、西南戦争で活躍、警視庁抜刀隊に参加、槍を持って出陣 帰ってきたときは槍の穂先が丸くなっていたそうです、又 ポケットの中は目釘で一杯だったそうです、北辰隊に伝わる西郷軍対策技が今も伝えられています。得意技は千葉のおけつと言う投げ技で明治の撃劍会で一番強かったとも言われていたそうです、
村瀬馬太郎
加藤寛一 名古屋尾張藩の剣客
小川金之助 京都弘道館館長 剣道範士10段
小川先生の北辰一刀流免許の中には大目録伝小太刀の次第5本が書かれていた。
日本剣道形にいく本も取り入れられていると先代より聞いている。
大山網綱 13代 長野県知事 北辰一刀流門下
帯川和夫 顧問 長野県警察 元高速交通隊隊長、元松代警察学校射撃教官
当流派の道場は独立会派のため独自の目録制度を行っています
千葉の切り落としは下から落とす、多種多様の切り落とし技が伝わっています、
北辰一刀流は突きと切り落としがうまい流派と言われ千葉の3段突きを沖田総司も使ったとも言われています。(別名沖田総司三段突き)
初伝切紙
蓮折り 長短矩 捨目付 抜刀術初伝 組太刀剣道五行形 (天地人陰陽)
初目録 七曜剣
気は早く心は静か身は軽く目は明らかに技は激しく。
傳流伊藤一刀斎小太刀之次第 5本(発氣 横竪 試合心 切落 色付)
一刀流開祖 伊藤一刀斎先生より伝わり小野派一刀流~中西派一刀流と伝わり
組太刀の達人寺田先生より千葉周作先生の北辰一刀流ㇸとつながる。
抜刀術 中伝14本
北辰一刀流兵法箇条目録 正眼伝授【初目録と同格】
千葉家家伝の北辰流【北辰夢想流】居合8本
中目録師範免許 九曜剣
抜刀術奥伝11本
剣道五行形 裏の五本 天 中 地 陰 陽
(霞返し、下段の突き、外巻き、真撃、蓮折)
中央突破の秘術 正眼の完成と切り落とし技の完成
北辰一刀流の奥義は技と術だけではない、上達が早い指導法が奥義と言われています
指導法を学ぶ。
大目録 免許皆伝 星王剣
露之位 鍾の位 石火の位 の完成
切落を打ち破る極意蓮折りの完成
技に厚み有り
同じ技でも道具により技の掛け方が違います
古流竹刀剣術技 木劍剣術技 真剣剣術技
木枯らしの舞、木の葉落し、山笠の面、杖掛けの面、下段の突き、千葉の親指斬り、
鞠突きの面、刺し技、のりみの技、竹刀取り、白刃取り、一文字投げ、十文字投げ、
撫でくり面、引き落とし技、千葉の三段突き、引き倒し三段斬り、一刀流伝最上五点張り落としを打ち破る秘術、千葉栄次郎得意技 、≪迅速の踏み込み≫神速の如し、と言われた千葉周作先生が中西派一刀流の道場で修行をしていた時、兄弟子で三羽烏の一人、音無しの剣の使い手高柳先生と立会、音なしの剣を破った時に使った、それまでの古流にはない足技、(床板を踏み割る物凄い踏み込みであった)などの北辰一刀流の中でも六八手に乗らない口伝の技も稽古しています。
虎韜館は形を使い技を稽古し術にしていく稽古法が特徴です
千葉周作活人劍
稽古を重ねお互い互角に成ったら相打ちお互い死んでしまいます、お互い死ななくても良いところを探す これ相抜け 神道剣太刀の作用を伝えるのが一刀流ですが、
突き通す 断ち切るのみの消極的な作用だけでなく神武不殺之劍を学ぶ。